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会員写真展案内

豊 哲也         「星達の記憶」

大久保千広        「大久保千広と週刊文春の 35年」

籔本近己        「軌跡をたどる」

JPA岡山サポーター   PHOTOGROUP             ING&NEXT

牧島ヒロミツ      「かたちの誘惑」

山岡茂男        「100時間の雲南省紀行」

山田 昇        「秩父路」

戸渡俊康        「自然美との邂逅」

菅家令子        「油絵個展」

JPA日本写真作家協会    東北地区入賞・入選作品展

池村まさお写真展    「世界の絶景」

写真エッセー 1  渡辺澄晴              「東京オリンピック1964年」

 1960年代、アメリカの報道カメラマンが使っていた常用カメラは、日本製の一眼レフカメラ(主にニコンF)。一方、日本ではアメリカのグラフレックス社が戦前に売り出したスピードグラフィク(通称スピグラ)だった。カメラを支える左側のグリップには大きなフラッシュが付けられる大判カメラ。人目でそれと分かる報道カメラマンスタイル、私も一度使ってみたいと思っていた憧れのカメラだった。しかし、見た目通りに大きく重く、操作性の悪いカメラだから動きの早いスポーツ撮影にはそぐわない。

 

 先ごろ、「1964年の東京オリンピック前後のカメラ事情を聞かせてほしい」と朝日新聞社の取材をうけた(4月14日(土)夕刊に掲載)。欧米では1960年代に入ると東京オリンピックを境に「スピグラ」から日本製の一眼レフカメラに切り替えはじめていた。その一眼レフに新技術のモータードライブ(連写装置)を搭載していたが、その装置の故障が続出。この頃、日本ではモータードライブは殆ど使われておらず、故障の情報を得て対策を検討するために1962年9月15日渡米。今から56年前のこの日は、奇しくも私の33歳の誕生日だった。アメリカでは、坂元九の「すき焼きソング(上を向いて歩こう)」、日本では「ワシントン広場の夜は更けて」が流行していた。

 この年の2月、南アフリカ共和国の反アパルトヘイトの闘志・ネルソンマンデラ氏が投獄。10月には、米ソ一触即発の危機を迎えた。1963年11月、テキサス州ダラスでケネディ大統領が暗殺される。1964年6月、新潟大地震。10月、東京オリンピック。そして今年は、前述のマンデラ大統領・生誕100周年を迎える。日本は2年後の東京オリンピックの準備に追われ、いとまがない。

 

 私事で恐縮だが、私は9月15日に90歳(卒寿)を迎える。東京オリンピックまで、あと2年。手元にある愛機「ニコンF」同様、時折、身体のメンテナンスは必要だが、まだまだシャッターを切り続けたい。

 

2018.7.28

渡辺澄晴 写真雑科  29 「50年目のニューヨーク」

 当時勤めていた会社の命により1962年9月15日ニューヨークに赴任した。奇しくも私の33歳の誕生日だった。赴任して間もなくケネディー大統領がテレビラジオを通じて「ソ連がキューバにミサイル基地を建設中である」と発表。「キューバにミサイルを運ぶ船舶には断固タル措置をとる」と表明し、米・ソ一触即発の危機にに全世界が緊張した。その翌年の11月22日テキサス州ダラスで、ケネディー大統領が暗殺されるというショッキングなニュースが、初の人工衛星によるテレビ放送中に起き、リアルタイムで全世界にながされた。ベトナム戦争も拡大の一途、世界はだんだんきな臭くなっていった。

 1964年日本では東京オリンピック、そして新潟大震災があった。その直後、私は2年ぶりに帰国した。翌年ニューヨークの若者たちを撮った写真展を、銀座の富士フォトサロンで開催。「ワシントン広場の顔」というテーマで、全紙・全倍合せ123点を展示した。

 

50年のこだわり

 あれから50年になる。数年前から50年目のニューヨーク取材を決めていた。そして昨年秋ごろから旅行社に相談し、具体的な日程を決めた。しかし、しばらく行っていないニューヨークはまったく様子が分からない。観光とは異なりこの種の取材はツアーを組んで行くものではない。さりとて一人では心細い。そこで友人の現地滞在の彫刻家・斉藤誠治氏に「助手を探していると打診した」。間もなくメールが届いた。「斉藤先生から詳細を聞きました。渡辺さんの滞在期間中、僕の時間の許す限りお手伝いさせていただきます」。現地で活動しているJPA会員の棚井文雄氏からだった。彼とはメールでは何度か連絡を取り合ったが、・・。(棚井文雄 ニューヨーク物語 8  を参照)棚井氏からのアテンド引き受けのメールはとても嬉しかった。彼はアテンダーとしても一流だった。

  お陰で撮影はスムーズに終わった。正味6日の期間中、初夏から初冬のような気候を体験、おまけに雷・夕立まで経験するという写真日和だった。当然、撮影はすべてデジタルカメラである。メモリカードに記録された画像はホテルに戻って、パソコンで整理してハードディスクにも分散コピーした。整理した後、その日の成果はパソコンのディスプレイで再確認。これが「明日もまた」と、写欲を湧かせるひと時にもなった。考えてみると便利になったものである。

 

2013.5.20